普通のようで普通でない、
ジャンルレスの味覚ワールド
夜の帳が下りると、青いネオン「BC」の文字が灯る。
恵比寿駅から白金方面へ徒歩10分弱の路地裏。
「BASE-CHIC(ベーシック)」の開店だ。
青い月の暖簾をくぐれば、厨房を取り囲むL字カウンター。
「赤だしと焦がし生姜の特製タレ」「自家製デュカ」「発酵トマトソース」「ンドゥイヤ風味」など、メニューに書かれた味のキーワードが魅惑的でジャンルレス。
合わせるドリンクもオレンジワインやクラフト焼酎、日本酒などいろいろ。
そんな個性的な店を営むのは、ネッカチーフがトレードマークの中山耕三さんだ。
新宿の酒店の息子、割烹店からミラノの寿司店へ
新宿駅前、4丁目の自社ビルで祖父の代から営まれてきた「中山酒店」。中山耕三さんは、その三代目で男三兄弟の末っ子として生まれた。家業の商いの活気に加え、三世代と親族が常に顔を合わせるにぎやかな環境で育った。
「子どもの頃から食べることが大好きで、中学生になると毎週のようにお菓子を作っていました。同じビルで仕事をしていた叔父叔母が政治について侃々諤々(かんかんがくがく)と議論しているのをそばで見ていたり、フレンチレストランへ連れて行ってもらったり、僕と歳が離れた兄たちは美大生で、アート作品がその辺にあったりと、大人たちに囲まれて独特な情操教育を受けましたね。
料理の世界に進みたいと思いつつ、まずは大学に行けと言われ、その通りに進学しました。あまり勉強はせず、さまざまな飲食店のホールでアルバイトに明け暮れ、お金が貯まると海外へ行き、美味しいものを食べ歩きしていました。ちょっと背伸びしてジャケットを着て、ロンドンの「シンプソンズ」でローストビーフを食べる、みたいな。惹かれるのはアジアでもアメリカでもなくヨーロッパでしたね」
西洋料理が自分にしっくりくると思いながらも、中山さんは就職先を決める際、家族から「これからは和食がいい」と店まで紹介され、気づいた時には六本木の割烹店で修業が始まっていたという。
昔気質の料理長の下で1年3カ月ほど働くも、やはり何か違うと思い、ミラノで寿司職人を探しているという友人のつてを頼りにイタリアへわたった。
エノテカで衝撃を受けたアマローネ
「日本人が経営しているという話だったのですが、実際にはイタリア人で、働いている人はモロッコ人やルーマニア人。僕は寿司を本格的には握れないので、魚をおろすなど調理の下ごしらえを主に担当し、休憩時間は彼らにイタリア語を習いました。そのうち夜遊びもするようになり、例えば家具を勉強しているという、舌ピアスにスキンベッドの日本人男子と、その彼女と一緒にクラブへくり出したりもしていました。」
なかなかカオスなミラノ生活だが、そんな中、中山さんはエノテカ(ワインショップ&バー)で大きな衝撃を受ける出来事があった。「アマローネ」との出会いだ。アマローネは、アパッシメント(ブドウを陰干しして風味を凝縮させる)と熟成によって芳醇な味わいに仕上がる、ヴェネト州を代表する赤ワインである。
「僕は酒屋の息子ですから、お酒は嫌いではないですが、 それまで“酒は酔うためのもの”と思っていたところがありました。休日によくエノテカに行き、カウンターに山積みのピーナッツやひまわりの種をポリポリかじりながらグラスワインを飲んでいたのですが、ある時、棚にある美しいラベルのワインに目が留まりました。それがアマローネでした。試しに飲んでみたところ、ああ、ワインってこんなに美味しいのか! もっと飲みたい、もっとワインについて知りたい!という気持ちが湧き上がりました」
ワインに開眼するとともに、やはり料理も自分が求めるのは和ではなく洋だと確信した中山さん。1年のイタリア暮らしを終えて帰国後、白金のイタリアンで1年、ホールで働きながらワインを勉強し、西葛西のイタリアンの厨房で2年、次にマリオ・フリットリシェフの「イル・ピノーロ」などを展開していたスティルフーズで6年、各店舗の厨房を経て、最後はピッツェリアのシェフを務めた。
「その後、個性的な小さい店の営業を見てみたいと思い、渋谷区神泉のワインバー「BUCHI(ブチ)」へ。1階が立ち飲み、地階が着席で、料理もお酒も種類が豊富。伝説的な人気店でした。いち早く日本ワインやナチュラルワインを扱う店でもあったため、僕もそこで新たなワインの世界を知ることとなり、今もおつき合いのある酒販店とのコネクションもできました。1年半いて、後半はBUCHIの料理長を務めていました」

何料理かわからない店にしたい
Tシャツにタブリエ、ネッカチーフ、両腕にバングルが中山さんにとってのユニフォーム。
35歳で独立することを決め、実家のビルの1階のテナントを借りる形で2008年、ワインダイニング「NAKAYAMAYA(ナカヤマヤ)」を開いた。新宿駅から徒歩4分ながら静かな路地裏にあり、周辺の百貨店や海外ブランドに勤務する人たちなどが多く来店し、すぐに軌道に乗ったという。
リーマンショックや東日本大震災も乗り越え、11年続けてきたが、親が酒店を畳み、ビルを売却することになったため、店を営業しながら次の物件を探した。新宿、京橋、西早稲田、四谷、神田、目黒、神泉など広範囲で検討したそうだ。
「恵比寿には縁もゆかりもなく、駅からも離れている場所なので、同時に見つけた代々木上原の物件とどちらにしようかと思いましたが、最終的には直感を信じて選びました。BUCHIのオーナーが「店の魅力次第でお客様を引き寄せられる」と言っていたことも頭にあったので」
新宿ではスタンダードなイタリアンをベースに、少しひねりを効かせたものを組み込んだスタイルだったが、恵比寿では、より創作性の濃い料理、国籍を問わない料理を前に押し出すことにした。
割烹、寿司、イタリアン、ワインバーなどさまざまな業態で培った技術と持ち前のセンスの本領発揮といえるだろう。
中山さん自身、「自分は感覚的人間」と語る。
愛車のキャンノデール。独立前から自転車通勤で、2回盗難に遭い3台目。
「醤油や味噌も抵抗なく使えて、地中海や中東、アジアのスパイスも取り入れて、僕の中で美味しいと思える組み合わせの料理。オリジナルのおばんざいみたいな、何料理かわからない店にしたいと思いました。」
「当初、店名は「ざくろ」として、デザイナーとロゴの打ち合わせまで進んでいたのですが、ある時ふと「ベーシック」が浮かんだのです。
自分がやりたいもの、それが自分にとっての基本、ベースであり、シックはフランス語ですが、おしゃれで響きがいい。基本と洗練、2つを掛け合わせた「BASE-CHIC」にしたいと。
デザイナーを含め周囲からは「曖昧すぎて何なのかわからない」と不評だったのですが、僕からすると、何だかわからない店にしたかったから、合っているじゃんと。
ただ、あまりにも通じないと困るので、当初は頭に“夜台所”というキャッチをつけました。え? さらに不思議ですか?(笑)」
後編-----
オリジナル水餃子、しっとりもっちり高加水パンなど、BASE-CHICらしいメニューを紹介。お弁当やケータリング、料理教室など店の通常営業以外での活躍の様子も。
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