【マルディ グラ】世界各地のフィールドワーク +洞察力で、人々の胃袋と心をつかむ料理を くり出す(前編)

【マルディ グラ】世界各地のフィールドワーク
+洞察力で、人々の胃袋と心をつかむ料理を
くり出す(前編)

2025.08.08

 

うれしい時も人生の最期にも。
心のよりどころとなる存在に

 

新橋寄りの銀座8丁目、並木通り。
「MG」のロゴが書かれた小さな看板だけを頼りに、1人分の幅の長い階段を下りると、天井高4mの空間が現れる。
各種肉料理、トスカーナフライドポテト、エキゾチックな味つけの料理など、
フランス料理をベースにしながらも、そこに収まらない個性的な名物料理を生み出してきたオーナーシェフの和知徹さん。
世界を旅する料理人としても知られ、テレビ出演やレシピ本の出版、レストランプロデュース、食品や地域創生のアドバイザーなど、活躍の場は多岐にわたる。

謝肉祭を意味する「マルディ グラ」は今年9月で24周年。
これまでの歩みをふり返りながら、和知さんの素顔に迫ってみたい。

 

猪のタコス&迫力満点のステーキ

 

和知さんの半生をふり返るインタビューをスタート。いや、料理人歴40年近く、世界30カ国以上を旅した経験を持つ人だから、長丁場になる予感がする。オープンキッチンには美味しそうな食材が揃っているのが見える。ならば、先に料理撮影(=腹ごしらえ)をすることにしよう。



作っていただいたのは和知さんお得意の肉料理2品。1品目は千葉県「MINEOKA GIBIER」から届いた猪のバラ肉と肩ロース肉のコンフィ。仕上げに香ばしく焼き、タコス仕立てに。肉が見えないくらいにたっぷりのせたサルサは埼玉県「風の丘ファーム」の有機野菜で、タコスの生地に使った小麦 粉も同じ農場のもの。アメリカで買った派手色のプラスチックタコスホルダープレートに盛りつけるあたりが、和知さんらしい遊び心だ。



もう1品は山形県「なごみ農産」の黒毛和牛「和の奏(なごみのかなで)」サーロインを使ったステーキ。500g の塊をフライパンだけで焼き上げるという。

「常温にもどして、塩、こしょうをふります。こしょうは焦げ臭につながるから避けるシェフも多いと思いますが、中弱火 で香味野菜を加え、最初の片面はふたをして焼くやり方なら問題ありません。焼いた時間と同じだけ休ませ、余熱で仕上げます」

中心温度が約55℃で火を止め、間接的に置いたフライパンの余熱で60℃くらいになったら食べ頃。長年の経験により芯温計は使わなくてもわかるが、取材のためにあえて計測してもらった。



「違っていたらどうしようと思ったけれど、よかった。ほら、大丈夫ですよね(笑)。これくらい厚みのある肉のほうが焼きやすく、むしろ薄い肉をベストに焼くほうが難しいんですよ」

ワイルドでボリューミーだが、「和の奏」はさらりとした脂が特徴で、もたれずに食べられる 。さらに、肉の下にたっぷり添えられたミニトマトが新鮮で、抜群の口直し効果を発揮している。

「赤と黄色、それからサンマルツァーノタイプ も入っていて、小さいながらうま味が濃くて美味しいですね」


フランス留学から帰国、トンボ帰りでフランスへ

 



スタミナチャージしたところで、改めてインタビューを始める。まずは和知さんの幼少期までさかのぼってお聞きしたい。

「父は建設業、母は看護師で、僕は一人っ子です。父の仕事の関係で生まれた時は淡路島でしたが、ほどなく茨城県つくば市に移り住みました。父は単身赴任で各地を転々としていたため、ほとんど母子家庭みたいな感じでしたね。モダンな母の影響で、小学生の頃は油絵やバイオリンを習っていました。今でも絵を描くのは好きです。ときどき東京へ母と出かけて、新宿中村屋でカレーを食べ、紀伊國屋書店で本を買ってもらうのが楽しみでした」

「野球や水泳、テニスなどスポーツも人並みにはしましたが、音楽やファッション、アート、演劇などカルチャーへの興味のほうが強かったかな。中学時代はバンドでベースを弾き、中古レコードを漁り、高校では美術部、演劇部、テニス部をかけ持ちしていました。つくばという土地柄、外国人の大学生や研究生が街に多くいたこともあって英語に興味を持ち、ケニア人の留学生に習っていました。マトンシチューとかイングリッシュティーをごちそうになったりして、異国へのあこがれが高まりましたね」




イギリスのアンティークのペンダントライト


どうしたら海外で暮らせるかと考え、導き出した答えが「フランス料理の料理人になること」だったという。フランスに行くことが第一の目的のため、2年次にフランス校留学コースのある辻調理師専門学校を選び、1年目は大阪校で学んだ。

「1室2畳で月1万円という、当時でも激安のアパートを借りました。アルバイトは喫茶店のデザート部門で、ソフトクリームを巻いたり、ベイクド・アラスカのメレンゲを組み立てたり。そこの運営会社の社食が利用できたのと、同じアパートの大学生によくおごってもらうことで食費も安く済ませ、アルバイト代のほとんどは週末のクラブに注ぎ込んでいました。入店チェックがあるから、服も揃えて。遊びまくっていましたが、学校ではそれなりに勉強していましたよ」




10代の頃から「白山眼鏡店」のメガネを愛用。普段は6本ほどをシチュエーションによってかけ替えている。 

そして、念願のフランスへ。当時のカリキュラムでは、前期の半年を学校で学び、後期の半年はレストランでの研修だった。学校での勉強は楽しく、夏休みにはイタリアやスペインまで一人で旅した。語学学習が好きで物怖じしない性格だったため、英語、フランス語、片言のその国の言葉を駆使して積極的にコミュニケーションを図り、見知らぬ人ともすぐに打ち解けたという。

後期の研修先はブルゴーニュ地方の一つ星「ル・ランパール」。オーナーの家に下宿し、フランス人のサービススタッフと相部屋だったため、厨房だけでなく日常的に会話を交わすことでフランス語は上達していった。

「いい思い出しかない」1年間の経験を経て日本に帰国した和知さんは、なんと、同じ月にフランスへトンボ帰りする。

「とにかくフランスで暮らしたかった。昔も今も、何か思いついたら行動せずにはいられないタイプなんですよね。とはいえ、この時は有効期限の短い観光ビザですから、安宿を拠点にして就職先を探しました。紹介で入れる店も見つかったのですが、結果的には断念して日本にもどりました」


学びたかったのは人間性

 



日本での就職先は「ひらまつ亭(レストランひらまつ)」で、最初に配属されたのは製菓部門。材料を小数点以下まで正確に計量する作業ばかりでつまらなかったが、「料理とは別世界を知ることができ、後になっていい経験だったと思う」とのこと。
次は黒服を着て表のサービスを担当。外国人客と対話でき、高級ワインやチーズのオーダーを取れることから重宝された。
さらに、姉妹店のイタリアン「ヴィノッキオ」でシェフを務めるなど、20代にさまざまな部門の技術を身につけていった。

「27歳の時、パリの『ヴィヴァロワ』で3カ月研修しました。学びたかったのはレシピではなくて、クロード・ペローオーナーシェフをはじめとするファミリーやスタッフの思考や人間性です。ペローシェフはとてもおだやかで愛情深く、食材に対しても愛でる人でした。

ランジス市場への買い出しをサービスの人が担当することにも感心しました。食材の知識や目利きを料理人と同じように持っているのです。“今日はこんないい舌平目を手に入れたよ”“じゃあトゥルトにしようか”といったやり取りがある。料理人とサービス人、そしてお客さんも含めて、みなが健全な関係性を築いていて、その素敵さが心に残っています」

 

後編 -----

時代の一歩先を進んでいた「グレープ・ガンボ」のシェフを務めた後に「マルディ グラ」を開業。世界を旅する理由、レストランのあり方などについて語る。

 

後編はこちらから

 

ライター 渡辺 由美子 / カメラマン 宇秋 智康

和知 徹

1967年、兵庫県・淡路島に生まれ、茨城県で育つ。辻調グループのフランス校を経て東京「ひらまつ亭(レストランひらまつ)」に就職し、在籍中の1996年にパリ「ヴィヴァロワ」で約3カ月研修。ひらまつ系列の飯倉片町「アポリネール」の料理長に就く。1998年に退社し、銀座「グレープ・ガンボ」の料理長に就任。2001年に「マルディ グラ」を独立開業。

マルディ グラ
東京都中央区銀座8-6-19
野田屋ビルB1F
https://www.instagram.com/mardi_gras_official_1