幸せは盗まれない。
幸せはグラスの中にある。
東京・目黒通りに「元競馬場前」というバス停がある。
その名は、明治の終わりから昭和の始めにかけて存在した目黒競馬場の名残だ。
すぐ近くの通り沿いに、赤いファサードが目を引くビストロがある。
豊富なナチュラルワインとアラカルト料理を楽しめ、連日リピーターでにぎわう。
有名人の姿もちらほら見られ、外国人客も少なくない。
店主はフロアサービスを担当する宮内亮太郎さん。
パリのナチュラルワインショップ兼ビストロの有名店「ル・ヴェール・ヴォレ」で、初の日本人スタッフとして中心的役割を担った人物であり、そのムーブメントを東京店として受け継ぎ広めてきた。2017年からは店名を「メグロ アンジュール」に改め、我が道をゆく。
淡々とした静かな物腰で、これまでのユニークな経歴や飲食業への想いを語ってくれた。
ホテル勤務、和菓子職人を経てフランス行きをつかむ
東京都足立区に生まれた宮内さん。バスケットボールと長距離走が得意な少年だった。
「料理を作るのが好きということは特になく、ただ強いて言えば、母が栄養士だったので、家の料理も栄養バランスが考えられていて、いろどりよく盛りつけられていたことなどが多少影響していたのかもしれません。
高校生の頃、友人のお父さんが日本橋人形町でブラッスリーをやっていて、そこでアルバイトしたのがフランス料理との出合いですね。かっこいいなと思いました。それで辻調理師専門学校に入り、1年間調理を学びました。次にフランス校留学コースという選択がありましたが、学費が高いですし、その頃の自分はフランスに行くことがまだピンときていませんでした」
卒業後、ホテルニューオータニ(東京)に就職し、配属されたのはインターナショナル料理店の「トレーダーヴィックス 東京」。4年ほどサービスを担当し、フランスのグランヴァンなど王道のワインを学ぶ機会にも恵まれた。
その後、新橋のカジュアルフレンチで働くものの突然閉店となり、次に選んだ仕事は和菓子店「三原堂」の和菓子職人。突拍子もない気がしなくもないが、宮内さんにとってはさほど大胆な決断ではなかったらしい。ただ、ヨーロッパのファッションに興味があり、また学生時代にフランス校に行かなかったことが心に引っかかっていて、リベンジしたい気持ちは持っていたという。
和菓子製造に2年携わった頃、思わぬ形でパリに渡るチャンスがやってくる。
「知り合いがパリで日本料理店を開くため、そこでパティシエとして働かないかというオファーでした。そして、幸運にもカルト・ド・セジュール(滞在許可証)が取れた。つまり堂々と働けるため、これは行かない手はないなと」
ナチュラルワインの世界に入ったきっかけは個性派店主
パリの日本料理店では2年働いた。実際には菓子だけでなく、料理やサービスなど、さまざまな業務をこなさなければならなかった。生活にゆとりはなく、狭いアパートでは冷凍ストックのカレーか納豆に、スペイン産のお米を炊いて食べる日々だったという。
忙しくストレスの多い中、住まいのすぐ近くにおもしろいワインショップを見つけた。
「当時はまだ珍しいナチュラルワイン専門店でした。無造作風のワインのディスプレイにセンスの良さを感じ、店主は長いドレッドヘアの超個性派。僕は 高校時代にレコードを100枚ほど持っていたレゲエ好きで、ドレッドにしていたこともあったので(笑)、彼に惹きつけられてしまいました。
そこで、1杯6〜8ユーロでナチュラルワインを飲むのがささやかな楽しみになり、常連として顔を覚えられてからは、“これ飲んでみなよ ”とすすめられたりして。ナチュラルワインにハマるきっかけとなった店なのですが、あの店主だったからということが大きいですね」
都会を離れ、ナチュラルワインの生産地でしばらく暮らしてみようと考えた宮内さんは、「ジャン=イヴ・ペロン」を訪れ、住み込みで1カ月ほど働いた。サヴォワ地方アルベールヴィル近郊の冷涼な気候で、手摘み、無添加、長期間のマセラシオンなどを実践する生産者だ。
「朝7時に起きて、地元産のヨーグルトやチーズとパンを食べ、ぶどうの木の剪定やボトリング作業など、1日中、体を動かしていました。シャルトリューズの産地でもあったので、寝酒に1杯飲んで、9時頃にはもう寝てしまう。そんな田舎暮らしを満喫し、心身ともに健全になっていく感覚がありました。スマホを持っていない時代だったので、そういう娯楽もなく、写真で記録を残すこともほとんどしなかった。
でも、それがかえって良かったと思っています。機械越しに見る風景や、うわべの情報を得るのではなく、自分の目で見て触れたことが糧になる経験は、何物にも代えがたいですから」
パリの超繁盛店で遮二無二働く
パリにもどると、10区サンマルタン運河のほとりにあるナチュラルワインのビストロ「ル・ヴェール・ヴォレ」で1カ月働いた。再びワイン産地に行くため、臨時のつもりだった。
次の産地はロワール地方アンジュ。多くのナチュラルワイン生産者が集まる土地で、宮内さんが働いたのは「ドメーヌ・モス」。土壌の健全性にこだわりビオディナミ農法を実践し、ぶどうの個性をストレートに生かしたワインを造っている。
ある時、ル・ヴェール・ヴォレのオーナー、シリル・ボウダリエさんから「社員として正式に雇うから、今すぐ帰ってきて!」と電話が入り、言われるまま3カ月ぶりのパリにもどった。
「ル・ヴェー ル・ヴォレはナチュラルワインをカジュアルにパリで広めた先駆者的存在で、たとえばボトルのネックに値段を直接書き込むスタイルもこの店から流行しました。酒屋も兼ねており、1日100名の来客数がある超人気店。スタッフはナチュラルワインの知識に長けたプロ集団でしたが、厨房は厨房と呼べるようなものではなく、2人しか立てないスペースで、調理機器はオーブントースター2台と、中国製の炊飯器を蒸し器として使う程度しかなかった。
あのアラン・デュカスさんが食べにきて、“なんだこの厨房は”と目を丸くしていたくらいです。つまり、レストラン業としてのプロはほとんどおらず、それで僕に声をかけてくれたようです」
オーナーは宮内さんの実力を買っていたが、東洋人の容姿で言葉の壁もあり、フランス人客やスタッフからしばしば侮蔑的な態度を取られたという。「絶対に見返してやる」と心に誓い、仕込み、料理、サービス、洗い物まで、すべての業務をこなし、1日16時間働いた。
マグロの中落ちを海苔で巻いたり、ぽん酢やたまり醤油、ゆずこしょうなどミシュランシェフが使い始めた日本の調味料を日本人として自在に取り入れたりという工夫も見せ、これがお客さんに受けた。一方、ブーダンやカイエットなどビストロの定番もやってのけた(いったい、そんな厨房でどうやって作ったのだろうか、東洋から来た魔術師と思われたのではないか)。「厨房をリニューアルするから、どんどん自由にやってOK」と言われ、給料もアップ。そうなれば、周りの人々も認めざるを得ない。
「出勤日はがむしゃらに働きましたが、一方で休日はしっかり取れたので、イタリア、ベルギー、オランダなどEU内で気軽に小旅行を楽しめました。4年半ル・ヴェール・ヴォレで働き、オーナーからは“これからもずっといてほしい”と言われ、僕もそのつもりでいましたが……」
2012年に帰国。その理由は、日本で出産したいという妻の希望だった。2人は渡仏前にすでに結婚していたが、妻は短期ビザで日本とフランスを行き来し、ある時期は宮内さんの単身赴任など、不安定な生活が続いていた。そんな中でようやく授かった子であり、これまで自由にさせてくれていた妻に対し、報いるタイミングがきたわけだ。
「それなら、のれん分けとしてル・ヴェール・ヴォレの東京店を出したらどうか、という話になりました。とても魅力的な店ですから、日本で展開できるのは僕にとってもうれしく、新たな希望が生まれました」
後編 -----
ナチュラルワインのワイナリーで働き、パリの超繁盛ビストロでは料理からサービスまであらゆる業務をこなし、実力をつけた宮内さんは、帰国後、パリの店の姉妹店を開く。