レストランは“愛が集まる場所”。
思いを皿と空間にのせて、分かち合う。
近年の再開発でタワーマンションが建ち、駅前が新しくなった東急目黒線・武蔵小山駅。
一方、東京で一番長いアーケード商店街といわれる昔ながらの街並みも健在で、その取り合わせが新たな魅力を醸し出している。
2018年、武蔵小山駅から徒歩2分の場所に開業したワイン&ビストロ「Eme(エメ)」。
オーナーシェフ、武藤恭通さんに、修業時代から開業までの道のり、店作りのこだわり、料理への思い、さらにはそのレシピに至るまで、じっくり話を聞いた。
フランスのパティオを彷彿、グリーンショップのアプローチ
何も知らずに常連客に連れてこられた人は、建物の入り口でキョトンとするに違いない。どこからどう見ても、洒落たグリーンショップだから。両脇に珍しい観葉植物が並ぶ店内中央の通路を奥まで進むと、鉄格子のガラス戸と3段の階段、その向こうにゆったりとしたダイニングとアールを描いたカウンターが現れる。
まさに隠れ家と呼ぶにふさわしい、ユニークなたたずまい。インダストリアルやヴィンテージ感のあるインテリアにも心が躍る。「ね、いいでしょ?」と知っていることを自慢したくなる、「Eme(エメ)」はそんな店だ。
支持されている理由は内装だけではない。昼は3850円〜のコースのほかにフレンチ惣菜を盛り合わせた1980円のワンプレートを提供、夜のコースは7700円〜で、アラカルトも揃っており、豊富なワインや低アルコールカクテルなどと共に楽しめる、使い勝手のよさも魅力の一つ。
オーナーシェフ、武藤恭通さんは横浜市の菊名出身。なるほど、同じ東横線沿線で比較的近いことから武蔵小山を選んだ、と思いきや、そうではなかった。
「日常使いでも特別なお祝いの日でも使える店。おいしいだけでなく、豊かなライフスタイルに貢献できる場を目指して、感度の高い生活者が多そうな代々木上原、松濤、幡ヶ谷などを中心に物件を探していました。
なかなか見つからず、しかし妥協はしたくなかったので、フリーランスでケータリングの仕事をしながら探し続け、3年目にしてこの物件にめぐり合いました」
「元々は入り口のグリーンショップ“TRANSHIP(トランシップ)”の事務所スペースで、ここを飲食店にしたいと募集されていたのです。武蔵小山は小学生の頃に駅のスタンプラリーで立ち寄ったくらい(笑)で想定外でしたが、古くからの住民と再開発による新しい世代の両方の客層が見込め、また、センスの良い個人の飲食店がいくつかあるなど惹かれる点が多く、そして何よりフランスのパティオのような希少物件。即決でした」
コンクリートの天井やグレーの床など元の内装を生かしつつも、冷たい印象にならないようにと、板壁やヴィンテージの木製テーブル&椅子など、温もりのある木製品を多く取り入れた。
カウンターも最初からあったが、壁にくっついていた部分を切り離し、対面でも座れるようにした。奥に構えたオープンキッチンは、ケータリングやテイクアウトの需要を見込んで大きな作業台をキッチン内中央に設置。実際、コロナ禍でそれが役に立ったという。
客層は、女性同士または夫婦や家族などの地元客が中心で、40代以上が多いが、最近はSNSの影響か、若い世代も増えてきているそうだ。
人の評判ではなく、自分の体験から判断する
バスケ少年だった武藤さんだが、ドキュメント番組に出てくるヨーロッパの靴職人や絵画修復士などにあこがれを抱き、将来の夢は「海外で働き、何かの職人になる」というものだった。高校生になり、より具体的に進路を考えるようになると、「もっとも身近な職人であり、人に幸せを直接的に与えられる仕事」として料理人になることを決意する。
すでに他界していた祖父から生前に「おまえはきっと商売人になる」と言われた言葉が、心のどこかに残っていたこともあり、オーナーシェフの道を目指すことになる。
「通っていた小学校には女子のバスケットボール部しかなかったので、自分で男子チームのメンバーを集めて立ち上げ、キャプテンも務めました。団体戦で人をまとめることが好きな性格なのかもしれません。だからこそ、チームワークが求められる料理人という仕事を選んでよかったと思っています」
高校時代のアルバイト先はピザとパスタの店。それまで料理経験はほとんどなかったが、ピザ作りをまかされるようになり、そのおもしろさに目覚めた。
卒業後は、調理師学校に通う場合にかかる学費分を働いて貯め、そのお金でヨーロッパへ見聞の旅に行く計画を立て、代官山「タブローズ」に入店する。
「タブローズの先輩方は業界で名の知れた錚々たるメンバーで、私はついて行くのに必死でした。いや、ほとんどついていけていなかったと思います。ある時、先輩が作ったソースをこぼしてしまい、激しく叱られたわけでもないのですが、自分のふがいなさに、思わず泣いてしまいました。仕事で泣いたのはあの時が最初で最後かもしれません」
「先輩方からは日頃から“本物を見ろ”“美しいものに触れろ”“無理してでも〇〇レストランへ食べに行け”などとよく言われていました。学校ではなく、見聞を広げる旅を選んだ自分は、元々、聞きかじりや人の評判ではなく、自分の目で見て、体験して、納得したことを信じる性格なので、そうしたアドバイスを素直に受け止め、実践していました」
レストランに行くにはおしゃれも必要と、当時初めてクレジットカードを作り、月賦で手に入れたコムデギャルソンのジャケットやシャツ。今でも大切に保管しており、たまには袖を通すという。
バスクで学んだ滋味豊かな料理と郷土愛
タブローズの次に横浜のオーガニックレストランで働き、貯金が150万円になった2003年に旅を実行。3カ月間かけてフランスやイタリアの小さな町を訪ね、郷土料理を食べ歩き、美術館を見て回った。
「将来はフランス料理店のオーナーシェフになる」という気持ちはすでにかたまっていたが、ユースホステルで世界各国の旅人たちが英語で交流する様子を見て、「英語圏で暮らしてみたい」と考えた武藤さん。わずか数万円の残金を手に、友人がいるニュージーランドへ飛んだというのだから、なんとも大胆な行動である。
「ワーキングホリデーを利用し、モダンな和食店で1年間働きました。フランス料理の世界に入る前に、まず日本人として和食を知らないのはどうなんだろう?と思ったのです。和包丁を買うところから始めましたよ。
ここでは、のちに中華“レンゲ”の西岡英俊さんや和食“うぶか”の加藤邦彦さん、創作料理 “LOOP”の村上修平さんたちが働いていたこともあり、非常に刺激的な経験でしたね。肝心の英語は上達しませんでしたが……」
帰国後は洋菓子店で製菓技術を磨いてから、六本木のフレンチ「コジト」へ。ワインに精通したオーナーの影響で武藤さんもワインを学び、姉妹店の「マルシェ・オー・ヴァン・ヤマダ」ではシェフを務めた。
2009年に再び渡仏し、リヨンのカフェで3週間ほどシェフを務めた後、バスクへ。海沿いのレストランや、渡仏前から行くと決めていたシャルキュティエ(加工肉職人)、ピエール・オテイザ氏の下で働いた。
「私の場合、すでに30歳目前でそれなりにキャリアはありましたので、料理の修業というよりも伝統や文化、エスプリを肌で感じることが目的でした。日本で食べたオテイザさんのシャルキュトリのおいしさに感動し、ぜひ本場で体感したかったのです。
彼をはじめバスクで出会った人々は皆やさしく、まるで家族のように私のことを受け入れてくれました。それが何よりうれしかったですし、彼らがいかに自分たちの故郷を誇りに思っているかが、強く伝わってきました」
「バスク料理は素朴で味わい深く、自分の店を開く際にはオテイザさんのサラミなどを仕入れて、バスク料理を柱の一つにしようと考えました。ただし、レシピをそのまま真似て同じ味を再現しようとは思いませんでした。
なぜなら、たとえ真似をしたとしても、土地の気候風土や関わる人が異なるかぎり、決して同じ味にはならないからです。
けれど、それを悲観しているわけではありません。むしろ、自分が暮らす土地や日本の人々に合う食材を選び、自分なりのレシピを生み出すことが大切であり、それでいいのだと、私はバスクで感じ取ったのです」
最後にブルゴーニュの3つ星「ラムロワーズ」で4カ月経験を積んだ。その間、ソムリエに同行してワイナリーを訪問したのも良い経験だったと話す。
後編 -----
独立開業の夢を実現するために行っていたこと、看板料理や新作料理に見る武藤シェフの料理観、プライベートの過ごし方、理想とする店についてなどを語っていただいた。
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